地域の方々に育てられて230年。

これからも「ハイグレードな店」として、お客様の着物姿がさらに美しくなるようにサポートいたします。

 

創業から今日までの歩み

大分県豊後高田市の昭和の町。現在では、たくさんの観光客が訪れる町です。

その中心を流れる桂川のそばに、当店は創業しました。今から220年余り前のことです。

1788年(天明8年)、初代 高井栄介が呉服を取り扱う「瓦屋呉服店」を開業したのが当店の始まりです。

呉服店であるにもかかわらず「瓦屋」というのは、当時は瓦葺(かわらぶき)の家が珍しく、地元客から「瓦屋根の呉服屋」と呼ばれ、それががしだいに「瓦屋」という愛称に変化したのが店名の由来です。

第2次世界大戦中、衣料品統制のため休業を余儀なくされましたが、現代表(7代目)の祖母が、店を閉めないようにと、日用雑貨を仕入れて店頭で販売し細々と事業を継続していました。

その後、戦争も終わり呉服店を再開、呉服に加えて肌着や靴下も新たに取り扱うようになりました。

しかし、1951年(昭和26年)頃、これからの時代は専門化していることが必要であるとの考えから、呉服と寝具に取扱い商品を絞るようになりました。

1958年(昭和33年)、5代目が合資会社瓦屋呉服店を設立、6代目を経て1997年(平成9年)に現代表が7代目として跡を継ぎ、現在に至っています。

郷土の文献などに残っている当店にまつわる話

【豊後高田市史より】495ページより抜粋 (大正時代のころ)

商店街では高田側の横町通り(現在の中央通)が第一の繁盛地で、創業天命8年で現在も営業を続けている瓦屋を筆頭に、布屋・帯屋・鶴田・津民屋・俵屋等の呉服店が軒を連ねていた。

 

【豊後高田市明治百年より】53ページより抜粋 (大五郎騒動のとき)

大五郎を首領とする暴徒の大集団は、高田を過ぎて川原村に入ると、再び庄屋に放火を始め、「無政府、無政府」と歓声をあげ、全市は完全に百姓一揆と化した。

      ・・・途中略・・・

この残酷な血も涙もない一揆騒動の中で、人情のある明るい話があった。

一揆の暴徒が目ざした所は、必ず焼打掠奪された。何百軒という被害の中で、次の三軒は、先祖代々、慈悲深く、日ごろより貧乏な小者を可愛がった故を以て、鬼のように非道の暴徒もこれを見逃したといわれる。

それは田染村の上野庄屋の渡辺家と、高田横町(現在の中央通)の瓦屋高井家と芝崎中町佐田屋の賀来家であったと言われる。

      ・・・途中略・・・

横町瓦屋は妙寿寺惣代として慈悲深く、桂橋架橋のとき、率先して世話人となった功労に対し、大五郎が略奪を止めたと言われる。

 

 

この写真は、昭和35年頃のもので、店の前で6代目博爾(私の父)と父がかわいがっていた愛犬ベルが写っています。

後方の、レンガ造りの建物は現在でも残っています。

現在の店内をGoogleストリートビューの屋内版でご紹介しています

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